テキサス独立のヒーロー〜アラモ砦のディビー・クロケット

 


テキサス州サンアントニオに国立記念物としてアラモ(ポプラの意味)砦が保存されている。ここは、もともと教会で、要塞化されたスペイン人の定住地でもありおよそ3エーカーの面積をもっていた。
建物は石造で、高さ10フィート(約3メートル)の塀で囲まれていたが、現在は、塀が無く廃虚になっている。

もともとスペイン領だったテキサスの広大な土地は1821年に独立したメキシコの領土になっていた。
しかしメキシコの中心からあまりに遠い辺境のテキサスにはアメリカの開択民達がどんどん移住してきて1836年にメキシコから独立する為の叛乱を起した。
この叛乱をきいたメキシコでは独裁政権を樹立したばかりのサンタ・アナが自ら数千の軍隊を率いアメリカ人叛乱軍の一部187名が立てこもったアラモの砦に殺到する。
守っていたトラビス大佐や西部開拓移民の伝説的政治家デヴィ・クロケット諸刃のナイフの発明者ジム・ボウイなどは大軍の攻撃を受けて激闘13日ついに全滅してアラモの砦はメキシコ軍に占領された。
サンタ・アナは非戦闘員には全く危害を加えなかったが生き残った男は全て処刑した。守備側の指揮官は、ジム・ボウイとJ・B・トラビスだった。
戦死者は150人。アメリカ側の兵卒の中には、ディビー・クロケットの名があった。
メキシコ側の死傷者も150人だった。

ディビー・クロケットは1813年〜1814年のクリーク族との戦争中でアンドリュー・ジャクソン将軍(後に大統領)のもとで働き、1827年〜1831年と1833年〜1835年に国会の下院議員をつとめたが、ジャクソンの政策に反対し、1835年に選挙民が離れて落選した。
ジャクソンは、先住民の土地を奪って白人に分譲して人気を集めた領土拡大主議者でクロケットもまた粗野な開拓者を代表する拡大主義者であった。
失意のクロケットはテキサスかオレゴンに行く決心をした。
メキシコが1821年に独立しその領内でテキサスに多数のアメリカ人が入植して、現地民と紛争を起していた。
サンタ・アナはアメリカ人の拡大主義を警戒し早期に弾圧しようとした。
クロケットはそれに巻き込まれて死んだ為、当時の暦や芝居では英雄に祭りあげられる事になった。

 

この歴史上名高いアラモの戦いですぐに「アラモを忘れるな」(Remember the Alamo!)という叫びが上がり奮い立った反乱軍は、メキシコ軍を破ってテキサス共和国を独立させる。この共和国の別名が「孤独なる星」(ローン・スター)であった事はやがてアメリカ国旗の中の星として加わる事を予言した物であり9年後の1845年にこの共和国は奴隷制度を認める南部の一州テキサスとしてアメリカに併合されたのである。
こうしてアラモの砦はテキサス独立の為の貴重な犠牲として高く評価され愛国心のシンボルとなった。
歴史の浅いアメリカにとっては第一級の史跡であり今、サンアントニオの中心にある砦には観光客というよりかは、参拝者といっていいような人達の列が絶えない。


ディビー・クロケットの半生

ディビー・クロケットは、1786年、まだアメリカの州として組織を成していない頃のテネシー東部lの田舎に生まれた。
父親は農夫をしたり、酒場を開いたりしていたが、失敗ばかりだった。
ディビーは、開拓地の子供の常として早くから農場の仕事を手伝っていた。
12歳の時にはある男の牛運びの手伝いとしてヴァージニアまで400キロも歩いて行った事もある。仕事が終わってからも雇い主は、彼を力ずくで引き止めて働かせようとした為、彼は夜中、膝まで埋まるような雪の中を歩いて逃げたという逸話もある。翌年、学校に通わされたが、彼はきれいさっぱりすっぽかし、父親の罰せられる事を恐れ家出した。
2年後に戻ってきたが、今度は、父親の借金を返す為にあちこちの農家で働かされた。
その間しだいに、鹿、狼、あらい熊などの猟をする腕も身につけていったようだ。
18歳の時、教育を受けなければウダツが上がらない事を悟り、ようやく、学校に入る決心をした。
そして、雇い主と交渉して、一週間に2回働いて4日学校に通う事を認めらい半年通学した。
しかし、彼は知識欲よりも恋する心の方が勝っていた為恋人欲しさに退学しその思いの実現に打ち込んだ。
後年、彼は、この半年間が学校教育の全てだったと自分で述べている。)
そして、1806年、20歳の時、とうとうメアリー・フィンレーという女性を射止め結婚貧しいながらも独立の生活を始めた。
これ以後、彼は家族と共に新しい土地を求めてしばしば、移転している。
彼は、西へ進み、辺境、辺境へと移り住んだようである。
それが貧しい現実を逃れて発展を志す者の当時ごく普通に取られた選択であった。
後のクロケットの伝説の多くがミシシッピ川に関係しているのは、まさにそういった移転の行きついた先がこの大河に接する土地だったからである。
そして、ここが彼の政治上の地盤ともなった。

前に記述したようにクロケットは、1813年〜1814年にかけて、アンドリュー・ジャクソン将軍の下でクリークインディアンとの戦争に参加した。
スカウトとして活動したらしい。
鉄砲の腕も優れていた為、地位は軍曹だった。帰還後の1816年には地方の民兵隊の中尉にも選ばれ、1818年には大佐に昇格した。これによりクロケットは生涯、大佐の称号をもって呼称される事になる。
また、1817年には、治安判事にも選ばれた。
相当な人望があったと思われる。しかし、この間彼は、妻を病気で失い、1816年エリザベス・パットンと再婚している。彼女は、コブつきであったが、多少とも土地をもち、社会的な実務の能力をもち、この再婚はクロケットにとっては、地位の向上を意味したようである。彼は最初の妻との子と合わせて子沢山になってしまった。

アラモへの道

1821年、35歳のディビー・クロケットは、貧しく無教育で粗野な農民である事をむしろ、逆手に取り、辺境の農民の支持を集めてテネシー州議会に当選した。
そして、2期務めた後、1825年には連邦議会に打って出た。
その時は失敗したが、1827年には下院議員に当選、1831年までに2期務めた。

すでに述べたように最初、クロケットは、アンドリュー・ジャクソンの熱烈な支持者だった。
かつて軍人としてのその指揮下で戦っただけではなく、自分と同じテネシー出身で民衆の政治家というジャクソンにクロケットは、共鳴するものを感じたからである。

ところが、ジャクソンとクロケットの間には以外に早くから亀裂が生じた。
一つには、ジャクソンは、貧しい生まれには違いないが、実は豊かな農園主となりナッシュビルの近くに「ザ・ハーミテージ」(仏語:隠者の家)と名付けられた優雅なマンションを建てて住んでいる様な人だった。生活の態度も信条もクロケットとは隔たりがあった。
加えて同じテネシー出身の政治家といってもジャクソンは、中部テネシーのジェントルマン階級の考えを身につけていたのに対しクロケットは、もっと辺境である西部テネシーの田舎の開拓農民の利益を代弁していた。
それでも「議員一年生」の間はクロケットも自分を抑えてた。
1829年に再び当選すると自身を得たのが公共の土地を開拓農民に安く提供すうという彼の数年間の主張がジャクソン政権によってはばまれたところからはっきりと彼に衝突するl様になった。クロケットが政治に素人同然で激情型だった事も両者に懸隔を大きくしたのかもしれない。1831年選挙でクロケットは、ジャクソンとその党を公然と烈しく批判した。
その為落選してしまった。するとこれを今度は利用しようとする者が現れた。ホイッグ党の策士達である。ホイッグ党は正式に民主党に対抗し1834年に結成されたものであるがそれ以前からジョン・クインシー・アダムスなどを指揮者として資本家や地主階級を地盤とし活動している政党である。
しかし、ジャクソニアン・デモクラシーの勢力に押し捲られていた。
1832年の大統領選挙でもジャクソンが圧勝して再選された。危機感は大きかった。
そこで目をつけたのがディビー・クロケットである。
庶民の代表である彼を味方に取り込めれば民主党のイメージを傷つけホイッグ党こそ民衆の政党だと主張する事が出来る。または、次の大統領選挙に適当な候補者がいないからクロケットをその可能性のある一人として盛り立てるのも面白いと、政治家達は、そんな策略をもってクロケットの宣伝に力を入れた。

ホイッグ党に利用され、ジャクソン及び民主党を敵にしたクロケットは、結局それが致命的となり、1835年の選挙でまたも落選してしまった。
ホイッグ党は、結局彼に見切りをつけクロケットはとうとう政治に見切りをつけた。
そして、同年11月彼はテネシーを背にし、西のテキサスへ去る事にした。
クロケットは別れに際し「お前等、(投票者)みんな地獄へ行くがよい。俺はテキサスへ行く」と述べたという。
ケンタッキーの土地を奪われて西に去ったダニエル・ブーンの心情と似ているかもしれない1836年2月クロケットは、テキサス州南部のサンアントニオについた。
当時はテキサスは、メキシコ領だったが、アメリカから入植した者たちは「テキサスの自由の為」と称して独立運動をおこしていた。クロケットは、これに共鳴してテキサスへ行った訳ではないらしい。
行ってみて独立運動に出会い名誉挽回と富獲得のよいチャンスと見極め、これに加わる事にしたらしい。
そしてアメリカ人100数十人が立て篭もるアラモ砦の応援に駆けつけた。そして3月初旬、サンタ・アナの率いる5000名のメキシコ軍がこの砦を包囲攻撃した。

3月6日遂に砦は陥落し、クロケット達は、全滅したが、この戦いで時を稼ぎ「アラモを忘れるな」の合い言葉のもと、アメリカ人側の結集が成された事が、6週間後、サム・ヒューストンによるサンタ・アナ軍の撃破と独立の達成に繋がったとされている。

最近の研究書でダン・キルゴア著 「ディビーはいかにして死んだか」(1978年)によると、クロケットは、戦いながら死んだのではなく、捕虜になって処刑されたのだという。
その事を当時も一部に伝えられたが、ディビーのヒロイズムを信じたい向きには、無視又は抹殺された。もっとも、彼が勇敢に戦った事も事実だと思う。
いずれにしても、「自由の為」の彼の死はディビー・クロケットの名声を決定的にした。
その死の直後、彼が書いた形の「クロケット大佐のテキサスにおける手柄と冒険」と称するでっち上げ
本まで出版されたという。
こうして、奥地から出てきた農民兼猟師上がりの素人政治家は、その野人的な庶民性を自分自身
も政治的謀略家達もエクセントリックなまでに強調して人気取りに成功したり失敗したりしていたが
一人自由を求めて西へ去り、自由の為に玉砕したという事により、エクセントリックな特性に一挙に
崇高さを加え、現実的なレベルでの政治屋を超えた神話的なナショナル・ヒーローにしたてあげられる事になったのである。

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