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奴隷制度と南部
| 『人は皆、平等に創られている』独立宣言の言葉として有名である。これはアメリカ合衆国の奴隷問題に関連して更に厳しい光をあてるようになった。奴隷解放令により北部と中西部の州では、1774年から1804年の間に奴隷制度を縮小しこの奴隷制度はやがて消滅するだろうと願っていた人々もいたがそれには程遠く戦争前の南部では奴隷制度は栄えていた。 経済面だけを考えれば奴隷制度は高い利益をあげていた。集中的な労働力が必要な木綿は主要な輸出品目で繊維産業が重要だった工業化されたばかりの英国等の国々で高い値をつけた。 1800年から1860年の間に木綿は、合衆の全輸出品の中でも約半分を占めるようになった。 南部経済の基礎だったばかりでなく北部経済をも活気つけていた。 奴隷制度は急速に発達しアメリカの拡張に伴い西や更に南でこの制度がとられるようになった。おびただしい数の奴隷がヴァージニアやノースカロライナ、サウスカロライナを去りアラバマやミシシッピ、ルイジアナのような新しい州やテリトリーへ移動した。 それでも1860年の国勢調査によると150万人の白人世帯のうち(白人総人口800万人)奴隷所有者や38万5000人しかいなかった。そのうち農場経営者(20人以上の奴隷所有)に数えられたのは少数派だった。 南部には二重の経済システムがあった。奴隷を所有しない白人の多数がブラックベルト(最も肥沃な土地)から遠く北方(アップカントリー)に住み、ようやく自給自足できる状態で独自の生活を営みながら下層民の共同体を形成していた。 そして他の白人たちは、奴隷を所有しようと努力していた。この社会的地位は固定していたのではなく、出入りのある流動的なものであった。 ![]() 奴隷は幅広く融通のきく労働力だった。砂糖、米、インディゴ栽培がサウスカロライナ、ジョージア、ルイジアナの海岸沿いの湿地帯で行われた。トウモロコシ、小麦などの主要作物はほとんどの地域で作られた。トウモロコシは綿花の成長期と都合よく合ったので、南部で最も多く栽培された作物であった。南部は大部分が田舎の農村社会だったが、奴隷労働は土地や工場で利用された。奴隷の人的価値を散々するのは難しい。歴史家の多くは奴隷の忍耐力を強調し他人を助けるという豊かな文化的環境を切り開いてきたという。しかし最近の研究では奴隷システムの野蛮な特質が同じ様に強調されている。奴隷にとって最も辛かったのは国内の奴隷売買によって家族や友人の社会から強制的に別離される事だった。罰は日常茶飯事で白人主人による女奴隷へセクハラ(かなり甘い表現)を阻止する手立てはほとんどなかった。奴隷自身の配偶者や子供達の自由を渇望する奴隷の身体的、及び精神的ストレスは相当激しかった。 しかし新世界の他の奴隷所有社会と違い奴隷人口の自己増殖があったアメリカの場合、奴隷社会の成功を意味していた。 1800年から1860年の間に奴隷人口は90万人から400万人に増えた。キリスト教とアフリカの宗教、民話、魔術がプラスに作用し奴隷所有者の支配下に入れられたところを奴隷の共同体はうまく切り抜ける距離をとり、彼等の文化的独自性を保った。 |