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南北戦争で活躍した将軍達

 

北軍の将軍達

 

ドン・カーロス・ブエル
1841年、ウェスト・ポイント(陸軍士官学校)を卒業。
セミノール戦争と米墨戦争に従軍。 その後、軍務局勤務となった。
1861年、オハイオ方面軍の指揮を任された。 テネシー州ナッシュビルまで
進軍後、コリンスに向かうよう指示を受け、偶然シャイローの戦いに遭遇、
形勢逆転をせしめる。テネシー州とケンタッキー州における様々な作戦行動
では、優柔不断さを示しながらも、最終的には、プラクストン・ブラックの軍を
破った。しかしながら勝利後の有利な情勢に乗じて更なる攻撃をしなかった
ブエルの責任を追及し、辟易したリンカーンは、1862年10月、ブエルの指揮官
の職を解いた。ブエルは1864年北軍を辞職した。
戦後は、ケンタッキーに住んだ。
アンプローズ・バーンサイト
1847年、ウェスト・ポイントを卒業。
短期間、米墨戦争に従軍後、辞職して自分のデザインしたライフルの製造に
従事。南北戦争勃発後、北軍に復帰する。
第一次ブル・ラン川の戦いとアンティータムの戦いにおける彼の部隊の活躍は
めざましく、リンカーンは1862年10月、ポトマック方面軍司令官に任命する。
しかしフレデリックスバーグでは惨敗。辞職を願い出るが、司令官の職を解か
れたのみで、代わりにオハイオ地区を任された。
北部民主党(当時の反戦団体)に対し強硬な態度をとってきた。
東部に戻るとウィルダネスの戦いに参加するが、ピータースバーグの包囲線に
おける北軍の大損失の責任を問われ軍を辞職する。
戦後は、ロードアイランド州の政界に入り、州知事や合衆国上院議員を務めた
ユリシーズ・グラント
1843年ウェスト・ポイントを真ん中くらいの成績で卒業。
米墨戦争に対しては乗り気ではなかったが、それでもめざましい戦果を上げた
しかし、、平時の西部駐屯は性に合わず飲酒に耽り1854年辞職する。
その後、仕事を転々とするがどれも成功しなかった。
南北戦争勃発と共に大佐として任命され復帰し、すぐに准将に任命される。
1862年ヘンリー砦とドネルソン砦を攻略後、南軍拠点ミシシッピー州コリンズ
へ進軍。シャイローでは大被害を蒙っものの烈しい大混戦の末勝利を納めた。
1863年重要拠点であるヴィックスバーグを見事に陥落させチャタヌーガの戦い
でも重要な勝利を納めた。
その後リンカーンはグラントに北軍全軍の指揮を任せてグラントはリッチモンド
に向けて進軍を開始した。
ウィルダネス、スポットシルバニア裁判所、コールドハーバー、ピータースバーグ
などの主要な戦いを経てとうとうアポマトックスにおいて南軍を圧倒。
ロバート・リーを降伏に追い込んだ。
戦後アンドリュー・ジョンソン大統領の陸軍省長官、そしてその後二期に渡り、
合衆国大統領を務めた。
ヘンリー・ホレック 1839年、ウェスト・ポイントを3位の成績で卒業。
知性派で戦略に関する著作もある。 米墨戦争中はカリフォルニアで戦い、
1854年、辞職してカリフォルニアで法律事務所を始めた。1861年に軍に復帰。
西部戦線を任された。
1862年から1864年にかけて最高位の将軍としてワシントン勤務した。
その後、グラント将軍の陸軍参謀総長を務めた。
専門的な著作をするのみならず、軍隊の組織作りにも優れていたが政府高官
との関係は必ずしも良好ではなかった。
戦場の指揮官としてはどちらかというと判断力に欠け、他の将軍との関係もあ
まりよくなかった。特にマクラレン(更に優柔不断)とはよく争っていた。
とは、いえ、1864年から1865年にかけてグラントのもとにいた時は忠実に仕えた
 戦後も終生軍に身をおいた。
ジョセフ・フッカー
1837年、ウェスト・ポイントを卒業。
米墨戦争は参謀将校であったが、ウィンスフィールド・スコット将軍と衝突。
1853年に辞職する。 その後カリフォルニアで農業を営む。第一次ブル・ラン川
の戦いの後、リンカーンに手紙を書き、「私は閣下の配下にあったどの将軍より
もはるかに優秀であります。」と述べ、まもなく将軍に抜擢された。
第二次ブル・ラン川の戦いに参加、アンティータム運河の戦いでは足を負傷。
優秀な戦場指揮官だあったが、リンカーンい言わせるとしばしば上官や上層部
について不適切かつ不必要な批判をしていた。しかしながら、フレデリックスバー
グにおけるバーンサイドの失策の後イリンカーンはフッカーをボトマック方面軍の
指揮官に任命した。フッカーは直ちに「私の作戦は完璧である。神がリー将軍に
ご慈悲を賜るように私はひとかけらの情けもやらないから。」
しかし彼は間違っていた。チャンセラーヒルズでは大敗を喫した。
その後直ちに方面軍指揮軍のSひょ区を解かれるように申し出たがその理由は
上層部が彼に充分な支援を与えなかったからというものであった。
その後は南北戦争中はずっと西部戦線にまわされた。
ジョージ・マクレラン
1846年ウェスト・ポイントを次席で卒業。
直ちにメキシコに派遣されスコット将軍のもとで立派に仕えた。戦後は3年間ウェ
スト・ポイントで工兵学を教えた後、西部で数回、ヨーロッパで一回、工事を受け
もち、1857年に陸軍を辞職してイリノイ・セントラル鉄道に就職。
南北戦争勃発とともに陸軍に復帰。1862年7月にポトマック方面司令官に任命
される。彼は兵隊の訓練は巧かったが、どうしようもないほど非現実的で非常に
自己顕示欲が強かった。また政治的野心が強くてリンカーンについても極めて
批判的であった。 マクラレンは戦場指揮官としては異様に攻撃を仕掛けるのが
遅く敵の規模を過大評価しがちであった。
彼のリッチモンド攻略は失敗に終わりリンカーンは彼を司令官としての任務を解く
が第二次ブル・ラン川の戦いの北軍敗北後、再任する。
アンティータム運河の戦いで勝つもののその好機を活かして攻勢に出ずバーンサ
イドにとって変わられる。1864年には民主党から合衆国大統領選挙に出た。
軍事歴史家ケネス・ウィリアムズはマクラレンについて「彼は本物の将軍ではなく
魅力的ではあるが虚栄心が強く情緒不安定な人間で軍事的知識があって馬に乗
るのが巧くそして大統領になりたがっていただけの事である。」と酷評している。
後にマクラレンはニューヨーク州で行政職を務めた後1878年から1881年にかけて
ニュージャージー州の知事となった。
アーヴィン・マクダウェル
1838年ウェスト・ポイントを卒業。
卒業から南北戦争勃発までは主に参謀将校として務めこの経験の為、ワシントン
に集められた部隊の司令官を任された。しかし、第一次ブル・ラン川の戦いで経
験あさい部隊の統率に失敗。総崩れとなり直ちにマクラレンに取って代わられた。
第二次ブル・ラン川の戦いの後、司令官として任務を解かれ飲酒のかどで告発さ
れるが逆に査問会議を要求。無罪となる。(彼は絶対の禁酒主義者であった。
彼は食欲に勝てずデザートに西瓜一個を平らげたと言われている。」)
その後、戦場で部隊を指揮する事はなかった。戦争終結までサンフランシスコの
地域司令官であった。線後は様々な官職を務めたが老境に入ってからはサンフラ
ンシスコの公園局長となった。
ジョージ・G・ミード
1835年ウェスト・ポイントを卒業。
しかし翌年に陸軍を除隊。数年間測量士として働いた後、地図製作技師として陸
軍に復帰。米墨戦争中はザカリー・テーラー将軍のもとで働いた。
第一次ブル・ラン川の戦いに参戦。リチモンド手前の七日間の戦いでは重傷を負う
第二次ブル・ラン川の戦い、アンティーダムの戦い、フレデリックス・バーグの戦
かい、チャンセラーズの戦いでは優秀で積極的な指揮官として名声を築いた。
ジョセフ・フッカーがポトマックビル方面の司令官を辞任した時、リンカーンが後任
に選んだのは、ミードであた。
ゲティスバーグにおける彼の指揮ぶりは見事であったが戦闘終了後、ロバート・
リーの疲れきった部隊に追撃を加えず怒ったリンカーンは、「攻撃を加える事無く
敵が自由に逃げるに任せた。」事を非難する手紙を書いたくらいである。(投函は
しなかった)。ミードは戦術面では名人といってよかったが、大戦略をたてる空想力
に欠けていた。ある歴史家は、これを「注意深い優柔不断さ」と呼んでいる。
ウィルダネスの戦いでは、ユリシーズ・グラントの配下におかれたがポトマック方面
司令官という称号を保持する事が許された。
戦後は、ディープ・サウスの占領軍指揮官となった。
フィリップ・シェルダン 他の士官候補生と喧嘩をしたため1年間の停学処分を受けた後1853年ウェスト・ポ
イントを卒業。
北西部のインディアンの戦いに参加。南北戦争勃発後は西部戦線において、参謀
将校を務めた。1862年、騎兵隊に配属される。西部戦線で様々な戦闘を体験した
後、ユリシーズ・グラントに東部戦線の騎兵隊を編成し直すように命じられる。
ウィルダネスの戦いからアボマトックス裁判所の戦いまで全ての戦闘で敵の連絡を
遮断したり、シェナンドー渓谷における物資補給を絶ったりするなど重要な役割を
演じた。戦後はルイジアナとテキサスの占領軍指揮官を務め、その後は平原イン
ディアンとの戦いに参加。1864年には陸軍最高司令官に任命された。
当時の他の殆どの将軍と違いシェルダンは総力戦という考えに立ち単に敵軍を破
るだけでなく、敵の戦闘能力を破壊する事を目指した。
ウィリアム・シャーマン 1840年、ウェスト・ポイントを卒業。
米墨戦争では戦闘に参加せず、1853年陸軍を辞職しサンフランシスコの銀行に
就職した。その後、様々な事業に手をつけるがどれ一つ成功しなかった。
1859年、ルイジアナ州にある陸軍学校の校長になるが1861年ルイジアナ州が連邦
脱退すると共に辞職。
陸軍に戻って、第一次ブル・ラン川の戦いに参加したが、その後は西部戦線で戦
った。シャイローの戦い、ヴィックスバーグの包囲戦線、チャタヌーガの戦いでは、
グラント将軍のもとに配属された。
シャーマンは、アトランタを陥落させた部隊を指揮し、ジョージアを横切ってサバナ
まで進軍し、南北カロライナを通って北上した。
最後の南軍部隊は彼に1865年、4月26日降伏した。
シャーマンは全面戦争という考えを持ち、特に「ジョージア横断進軍」の際、無慈悲
な焦土作戦を遂行した事で有名だが、(風と共に去りぬ)厳しい南部再建計画には
反対であった。グラント将軍が大統領になると共に後任として陸軍司令官になり、
グラントが1883年に引退するまで勤めた。その後政界入りを勧める声が高かった
が、かたくなに断った。
ジョージ・H・トマス 1840年、ウェスト・ポイントを卒業。
フロリダセミノール・インディアンと戦い、米墨戦争ではザカリー・ティラーのもとで
参加した。1851年から1854年までウェスト・ポイントで教鞭をとった。
南部出身であったが、南北戦争では北部を支持した。
コリンスの戦いに参加後は戦果を上げた。
チカモーガの戦いとチャタヌーガの戦いは有名。
彼の部隊はアトランタ攻略軍の一部であったがシャーマンが全く抵抗受ける事無く
アトランタからサバナまで進軍したのに対しトーマスは南軍を追撃し北上しナッシュ
ビルで破った。戦闘に備えて入念に準備した為優柔不断と噂されたが実際に彼が
戦うとそのような事は決してなかった。
北軍の将軍の中で恐らく最も過小評価された人であろう。


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