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血に飢えた情け無用の若き強盗団の首領

ビリー・ザ・キッドと同年代の24歳にして散った短い生涯の西部史上極悪非道のヒーロー、ホワキーン・ムーレイタ。
血に飢えた強盗団の若き首領は、情け知らずで行動力に富んでいた。
一般にはあまり馴染みは、無いかも知れないけれど西部のアウトローの中でも最大の大物だった。

1848
年1月24日にニュージャージー州の大工ジェームス・W・マーシャルがアメリカン川の南の支流沿いのコロマで金を発見して以来数知れぬ程の追いはぎや駅馬車強盗団が西部一帯を横行する様になった。
そして、何万という金鉱堀がこの地に押し寄せた結果1851
年にはカリフォルニアの金の年間産出量は、5,500万ドルに達した。
既に多くの金鉱堀がシェラネバダ山脈の麓の丘で金鉱を掘り当てて砂金や金塊を袋詰にして故郷のサクラメントやサンフランシスコに帰っていった。

1849年には駅馬車が登場しジョン・ホイストマンによってサンフランシスコとサンノゼを繋ぐ50マイルの駅馬車の路線が敷かれた。
1851
年になると駅馬車の路線は、名の知れた幾つかの主要な金山の町にまで延長されて金は、ニューハンプシャー州コンコードの有名なアポットダウニング社が製作した堅個な特別製駅馬車、コンコード・コーチの金庫に収められて運び出される様になった。
この頃は、一山当てた金鉱堀達が馬やロバの背に金を積んで故郷へ帰って行くようになっていた。
彼等の多くは、一人又は数人のグループで長い道のりを旅した。
中には、金鉱に残ってせっせと金を溜め込み駅馬車に乗せて故郷に帰る者もいたが、それでも防犯という点では無防備に等しかった。

当初、駅馬車の御者が銃を携帯する事はあまりなかった。
駅馬車強盗が出没する様になっても当初、会社の命令は、「戦うな。ともかく逃げろ。」だったから。
銃やライフルで武装した護衛が雇われて駅馬車に同乗する様になるのは、まだまだ先の事だった。

ホワキーン・ムーレイタは、本名をホワキーン・カリリョといい農夫の息子としてメキシコのソノラに生まれた。
彼は十代の頃近くに住む裕福な牧場主の一人娘ロシータ・フェリスという美少女と恋に落ちた。
二人は、結婚を望んだが、ロシータの父親が許さなかった。
二人は、深く愛し合っていたので北のサンタ・クララ・バレー(カリフォルニア)迄駆け落ちした。
そしてムーレイタは、カラベラス金鉱山に雇われ鉱夫として働いた。
ほどなく二人はマーフィズ・ディギングズという金鉱堀の村迄来て耕作に適した肥えた土地を見つけそこに小屋を建てて住んだ。

人生を変える大事件

それから数週間が過ぎた頃ムーレイタの兄のルイスがメキシコから二人のもとへやってきた。
弟の助言に従ってルイスも近くに畑を作って暮らす事にして、そこに自分の小屋を建てトウモロコシと小麦を植える準備にかかった。
しかし、その後の彼の人生を左右する事件が起きた。
もしもその事件が無かったら平凡な農夫として一生を過ごしたかもしれない。

その事件とは、ハンセンという素性の知れぬ男がリューク・ライリーのロバを盗んだ事から始まった。
ハンセンは、このロバをルイスに売りつけていた。
ルイスは、そのロバで畑を耕そうとしていた。
ある日、ムーレイタは、ルイスからロバを借りた。彼が自分の畑を耕しているところにロープを手にしたライリーが数人の怒れる金鉱堀を従えてやってきた。
このリンチの集団は総勢16人を数えた。ムーレイタは、ロバのそもそもの持ち主がライリーであるという事には反論しなかった。

彼は自分の兄が何も知らずにハンセンという男からロバを買ったのだと説明した。
男達は、ルイスの小屋に押し掛けて彼を捕まえた。男達は、ルイスに一言の弁明の機会も与えず頭から布袋を被せ首にロープをくくりつけた。そしてそのロープを木の枝にかけるとルイスを吊し上げて縛り首にした。
更にその後、死体を嬲り者にした。

復讐鬼ムーレイタ

夜の間にムーレイタとロシータは、ロープを切ってルイスの遺体を枝から降ろし火葬した。
二人はルイスの小屋と自分達の小屋に火をつけて二度と人が住めないように焼き払った。
その後二人はわずかな家財道具を持って何マイルもの距離を歩きつづけた。
夜明け頃になって小さな洞窟を見つけて野宿する事にした。
その時ムーレイタは、兄の仇は、必ず討つと心に決め復讐の炎を燃やしていた。
二日後、ライリーを待ち伏せし、不意打ちで喉をかき切り、顔をズタズタにした。
「仇は全部で16人だ。墓の下の兄貴も、仇を討ってくれと叫んでいる。
妻が怯えるのも省みず、彼は復讐の誓いを果たしていく。
リンチに加わった男達を次々と待ち伏せし射殺し、あるいは、不意打ちでナイフで刺し殺したり、寝ているところを絞め殺したりしていった。
こうしてわずか2週間の内にリンチに加わった全ての男達を葬った。
1ヶ月もしない内に「ホワキーン・ムーレイタ」の名前は残忍な殺人鬼としてカリフォルニア州のサクラメントから北一帯に鳴り響いた。

西部史上に残る強盗団結成

ムーレイタは、兄の復讐が終わると馬を二頭盗んでロシータと共にオロビルへ向かった。
ある日の夕方、二人がテントを張り終えたところに三本指のジャックことマヌエル・ガルシア
率いるメキシコ人の馬泥棒の一団がやって来た。
その中には
クラウディオ・カブロン、ルイス・ブルビア、ペドロ・ゴンザレスらがいた。
そしてなんという運命のいたずらか、ロシータの弟のレエス・フェリスも混じっていたのだった。
レエスは、女の取り合いで他の牧場主の息子を射殺してしまい、ソノラから逃げて来たのだった。
三本指のジャックは、二人の馬を強奪するつもりだったが、ムーレイタが何者か知って気が変わり、この悪名高き殺人鬼に仲間に入らないかと誘った。

ロシータと弟のレエスは、偶然の再会に大喜びして、ロシータは、男装して一緒に旅したいと言った。
そうした経緯からムーレイタとロシータは、馬泥棒の仲間に加わる事になった。

首領ムーレイタ

最初の内ムーレイタは、進んで三本指のジャックの補佐役を買って出た。
一味はメアリーズヒル、オロビル、パラダイスの一帯で次々と馬泥棒を働き盗んだ馬の総数は200〜300頭にものぼった。

彼等は馬をメキシコに持っていって売り払った。やがてムーレイタはリーダーとして頭角を見せ始めた。ムーレイタは、リーダーの三本指のジャックに提言した。
「馬泥棒も大掛かりでやれば、確かに金になる。しかし、どうせなら金鉱堀や駅馬車を襲う方が手っ取り早いしずっと金になる。」

そして、ムーレイタは、自分が駅馬車を襲撃して見せることになった。
この時ジャックは、お手並み拝見とばかりに野次馬気分でついていった。
こうしてムーレイタは、パラダイスの数マイル南のフェザー川沿いでサンフランシスコ行きの駅馬車を待ち伏せした。
御者が馬のスピードをゆるめた瞬間を逃さず大岩の影からムーレイタが現れた。
彼は二挺の拳銃を突きつけ馬車を止めさせた。
「金庫を下ろせ」
御者は、言われた通り金庫を地面に投げ下ろした。
同時に冷酷にも御者の眉間を撃ち抜いた。
乗客は、金鉱堀だった。金庫の鍵を誰も持っていない事がわかるとムーレイタは、全員を射殺した。
この非情さにジャックは、ムーレイタに惚れ込んだ。彼自身、金鉱堀やカウボーイを撃ち殺して略奪して悪名を轟かせていたがムーレイタに天分を感じ、間もなく二人の立場は入替わりムーレイタが一味の首領となった。

ムーレイタの黄金伝説

このフェザー川の殺戮以来、彼は同様の手口で駅馬車強盗を繰り返した。
強奪した金塊を襲撃現場の近く、主にカラベラスやシャスタ郡のどこかに埋めて隠してきた。
一味が埋めた金の総額は、200万ドル〜250万ドルにも及ぶと推定される。
初めの頃は彼等は強奪品を金庫ごと埋めて隠していた。
しかし駅馬車会社の経営者達が講じた幾つかの抵抗手段の為にムーレイタもやり方を変えなければならなかった。
駅馬車会社が考えた対策の一つは金庫を鉄のボルトで馬車の床に固定する事だった。
この問題を解決する為にムーレイタは、鞍袋に布袋を幾つかつっこんでいく事にした。
彼等はボルトで固定された金庫から金塊を取り出して袋に詰めて持ち去り袋ごと金塊を埋めた。
ムーレイタを悩ましたもう一つの対策は、駅馬車会社の代理人が金鉱堀が駅馬車に積込む金の重さを計って受取証を発行するというものだった。
こうした金は全部纏めて溶かされ通例、球形の塊に鋳造された。
こうして鋳造された金塊は、600〜700ボンド(280キロ〜320キロ位)もの重さに達する為、もはや持去る事は不可能だった。

1851年になるとムーレイタとジャックは、斧を携えて駅馬車を襲撃する様になった。
金庫の中身が大きな金塊だったとしても斧で、持ち運びできる適当な大きさに砕けばよかったからである。
こうしてバラされた金塊が少なくても4つカラベラス郡やシャスタ郡で発見されている。
1851年の終わりにはムーレイタの一味は70人を越える大所帯になっていた。
彼等の多くはメキシコ人の盗賊や馬泥棒でそれまでは、一匹狼でやっていた者や、ムーレイタの仲間になる為にアメリカ迄やって来た者達だった。
そして、一人残らず残忍な人殺しでその向う見ずな性質や忠誠心銃とナイフの腕前等をムーレイタが自ら定めた上で選りすぐった連中だった。

ムーレイタは、あちこちの金鉱の飯場や集落にスパイを潜り込ませ彼等からの連絡で大量の金が輸送される便を予め知る事が
出来た。

ムーレイタがこうした駅馬車を狙って襲撃する時は大抵、ジャックや元々の仲間4〜5人の手下を引き連れていった。
主に1851年〜1852年にかけてムーレイタは、多くの駅馬車から金塊を強奪して埋めたが以下のモノが最も信憑性が高い。

1.シュザ-ンヒルからフリードニヤー・バス迄の区域。約20万ドル
(ルート36号線付近)
2.バーニーからハチェット・マウンテン・バス迄の区域。約17万5千
ドル(USハイウェイ299号線)
3.オロビルからチコ迄の区域。8万5千ドル、12万5千ドル、8万ドル
17万5千ドル(USハイウェイ99号線)
4.チコからパラダイス迄の区域。3万5千ドル、9万ドル、25万ドル
(ビッグ・ビュート川の土手)
5.ダウニービル一帯。1万2500ドル、7万5千ドル。
(ルート49号線付近。)

この他にもムーレイタがカリフォルニアに居られなくなった時の為にメキシコ国境付近で回収出来る様に50万ドル〜100万ドル相当の金塊を幾つかに分けてサンディエゴ郡のどこかに埋めたとされている。

保安官や自警団、臨時召集された犯人捜索隊等がムーレイタの首をとろうとつけねらう様になり、その数も次第に増えてきた。
1851年の11月、ムーレイタがわずか2週間足らずの間に7人もの人間を惨殺した後、彼の首に掛かった賞金は、生死を問わず5千ドルに引上げられた。

たまたまムーレイタとでくわした何人かの男達がこの賞金をモノにしようと撃合いを挑んだり、ある時は5人の自警団がダウニービルの近くの路上でムーレイタを見つけて追跡したが、いずれも返り討に
あって全員殺された。

ムーレイタ一味は凄腕揃いで捜索隊や自警団では、到底歯が立たない事が判ってきた。
1853年5月、ジョン・ビグラー知事は、カウボーイで早撃ちのハリー・ラブを大尉に任命して彼と同じ腕のたつ男20人を選んで武装パトロール隊を結成させた。


ラブ大尉は、正面から撃合う様な真似は、しないで、ムーレイタと一部の幹部だけが残っているところをひたすら待ってチャンスを
うかがった。
一味の内の大人数グループが「出稼ぎ」に行っているのを確認し、遂に隠れ家を発見した。
パトロール隊の一斉射撃を受けてあえなくムーレイタも三本指のジャックも息絶えた。
その後、ムーレイタの首とジャックの欠けた方の手首は、見世物として酒場に飾られた。

ムーレイタが隠した金塊は、様々な人によって捜索されているが一部を除いて未だに行方知れずとなっている。
アメリカの埋蔵金伝説の一つである。

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