
| ピエール・G・ T・ボールガード | 1838年、ウェストポイント(陸軍士官学校)を二番で卒業、戦術家として優れていた為、「南軍のナポレオン」と呼ばれていた。 米墨戦争中は、勇敢な行為を表彰され、2度負傷した。 1860年には、ウェスト・ポイントの校長に任命されたが、辞任して南軍の准将となった。南北戦争の口火を切ったサムター砦の攻撃を指揮し、第一次ブル・ラン川の戦いでは、ジョセフ・E・ジョンストン将軍の補佐を務めた。 次いで、シャイローの戦いとコリンズの戦いに参加。 1864年に東部戦線に復帰。 ウィルダネスの戦闘では、リー将軍の側面を援護、ベンジャミン・フランクリン・バトラーの指揮する敵軍を出し抜いた。 ピータースバーグの防衛にも手腕を発揮した。 ボールガードは、小柄でキビキビした男でいつも大戦略を練っていたがそれは実現しなかった。 彼は、南部連合国大統領ジェファーソン・ディビアスと折合いが悪く南軍の他の将軍も彼と中の悪い者が少なくなかった。 南北戦争後は、鉄道会社の社長、ルイジアナ州宝クジ局長、ニュー・オリンズ土木局長などを歴任した。 |
| ブラクストン・ブラッグ | 1837年、ウェストポイントを卒業。 セミノール戦争、米墨戦争に従軍する1856年に退役。1861年に南軍准将に任命される。 シャイローの戦いでは、善戦したが、その後はケンタッキーとテネシーで気の抜けた戦いを繰り返した。 たとえば、チカモーガの戦いでは、緒戦の勝利を有効に利用できなかった。 (たいてい、決断力が無い上に根気も無かった。) 彼がやっとチャタヌーガを攻撃する頃には北軍の増強部隊が到着しており、大敗北を喫してしまった。 チャタヌーガの戦いの後で、彼の部下はこう記している。 「現行司令官のもとにある限、我々を敗北から救ってくれるのは、神の手以外にありえないと信じる。」 戦後は、土木技師として、アラバマや、テキサスで働いた。 |
| アンブローズ・パウエル・ヒル | 1847年、ウェストポイントを卒業。米墨戦争に従軍後しばらく砦の守備隊に務め、その後、ワシントンの米国沿岸測量局に5年間いた。 リッチモンド手前の七日間の戦いで名をあげ第二次ブル・ラン川の戦いアンティータム運河の戦い、チャンセラーズビルの戦いで善戦するも最後の戦闘で負傷した。 この間、上司のストーンウォール・ジャクソン将軍としばしば、衝突した。 有名なゲティスバーグの戦いでは、戦果華々しくでなく、ウィルダネスの戦いでは、病気がちであまり戦闘指揮をとれなかった。 1865年、4月2日、南軍の最後の退却の為、兵士を招集している時に戦死した。 歴史家ダグラス・サウザルフリーマン曰く、「ヒルは、南軍の蒙った災害を人より多く受取ってしまった。」。 時に無謀な作戦を立て、兵士を多く死なせてしまったが、指揮下の歩兵には敬愛されていたといわれている。 神経質で几帳面過ぎるところがあり、また、短気であった。他の将軍、特に最初の上官である、ジャクソンとその次のロングストリートとの関係は問題が絶えなかった。 |
| ジョン・B・フッド | 1853年、ウェストポイントをほとんど、ビリに近い成績で卒業。カリフォルニアとテキサスで戦った後、合衆国陸軍を辞め、南部連合国陸軍に入隊。 戦場を出るとすぐに豪胆と作戦能力を発揮し、中尉から中将に昇進した。 第二次ブル・ラン川の戦い、アンティータムの運河の戦い、ゲティスバーグの戦い(この時負傷)に参加。 その後、チカモウガの戦いで片足を失った。 陸軍の軍団を指揮し、シャーマン将軍のジョージア侵攻に対抗。 1864年、7月にはその軍団の最高指揮官になる。 しかし、アトランタ陥落後、テネシーに退却、1864年12月にナッシュビルで敗北し、軍人生命を絶たれる。戦後はニューオリンズで商人となった。 軍人としては、1級の戦略指揮官であり、「兵隊の真の指導者」と絶賛された。 彼自身、「捕獲した軍旗や銃、そして捕虜にした敵兵の数は指揮官の仕事の善し悪しをよく示す」と述べている。 しかし、事務能力はよくなく、軍隊の定型業務をしている時は根気がなかった。 |
| トーマス・J・ジャクソ | 1846年、ウェスト・ポイントを卒業、米墨戦争では、砲兵として従軍。 2年足らずのうちに少佐の地位まで昇進する。 1851年、ヴァージニア陸軍学校の教師になるが、教える事には全く関心が無く、生徒に「トム・フール(馬鹿者)ジャクソン」と呼ばれた。 もっともよく知られているもう一つのあだ名「ストーン・ウォール(石の壁)」は、第一次ブル・ラン川の戦いでつけられた。 その後まもなく、大胆な戦術家として名声を馳せるようになり、他の人では出来ない迅速な大人数の兵員移動を行ったので、彼の部隊は「歩く騎馬隊」と呼ばれた。 リッチモンド手前の7日間の戦いに参加後、第二次ブル・ラン川の戦いにおいては、南軍の勝利を導く事になった見事な側面攻撃を担当した。 アンティータム運河の戦い、フレデリックスバーグの戦いにおいても重要な役割を果たした。 チャンセラーズの戦いでは、第二次ブル・ラン川の 戦いと同じようにな側面攻撃を指揮したが、混乱の中、自軍の縦断によって、致命傷をおった。ジャクソンは大変信心深かった。 (歴史家のフリーマンは、「彼は新約聖書の通り生き、旧約聖書のとおり戦う」と述べている) しかし、部下と争う事も多かった。 彼をよく知る者の中には彼が正気でないと思っていた者もいたぐらいである。 |
| ジョセフ・E・ジョンストン | 1829年、ウェスト・ポイントを卒業。米墨戦争中、大尉から中佐まで昇進した。 メキシコ・シティ攻略戦中、何度か負傷した。1860年までには准将になっていたが、米国陸軍を退き、南部連合国軍に加わった。 第一次ブル・ラン川の戦いで勇名を馳せ、北ヴァージニア方面軍の指揮官に抜擢された。 リッチモンド周辺の戦いで、1862年7月負傷をおい、ロバート・リーが後任となる。 回復後、西部戦線で南軍を指揮するが、十分兵力を投入しなかった為、ヴィックスバーグの陥落を招いたとの不当に厳しい批判を受けた。 1864年シャーマンのアトランタ進軍を阻止する為の指揮をとるが アトランタ陥落直前に助けられる。 1865年4月26日、最後の南軍兵力として降伏した。 ジョンストンは防衛を重視、こんれは、長期的に見ると戦争を勝つのは適さない考えらしいが、それでも優秀な戦術家であったといわれしかし行政処分はあまりなかった。 なんといっても最大の問題はジェファソン大統領と仲が悪かった事でいつも政策をめぐってケンカしていたらしい。 |
| アルバート・ジョンストン | 1826年にウェスト・ポイントを卒業、ブラックホーク戦争に従軍したが、1834年除隊してテキサスに移ったしてテキサスに移った。1836年から1838年までキサス陸軍に所属。 また1838年から1840年まではテキサス共和国陸軍省教官を務めた。 1849年、アメリカ陸軍に復帰するが、1861年再び辞職して南軍の西部方面指揮官となる。 優勢な北軍を前に退却した後、兵力をテネシー州コリンズに集中する。 1862年4月6日近づいてきたグラントの部隊を奇襲するが勝利目前で死亡。 |
| ロバート・E・リー | 1829年ウェスト・ポイントを次席で卒業。 米墨戦争中はヴェラクルズ、セロ・ゴルド、その他のメキシコ・シティに攻略中に起きた様々な戦闘に参加した。 チャプルテペックで軽傷を負った。 1852年から1853年まで、ウェスト・ポイントの校長を務め、その後、ハーバース・フェリーでジョン・ブラウンを逮捕した部隊の指揮を執った。 彼は南部の合衆国脱退に反対であったが故郷のヴァージニア州が脱退するとそれに従い、ジェファーソン・ディビス大統領の軍事顧問になった。 アルバート・シドニー・ジョンストンが戦士すると、ディビスはリーを北ヴァージニア軍の指揮官に任命、リーは戦争終結まで東部戦線の全ての戦闘を北ヴァージニア軍を率いて戦った。 彼は素晴らしい戦術家であった。戦略家としては、北軍の優勢な兵力に対抗する為には攻勢にでなければいけないこと、さもなくば、ゆっくりと北軍に押し潰されるという方針を立てたが、これは困難だが正しい決定であった。 彼は敵の動きを先読みするのが人並外れて巧くその為、大胆ではあっても無謀ではなかった。 兵隊の事をよく思いやり、指揮下の兵隊、将校から敬われた。ストーン・ウェル・ジャクソンも「彼の言う事ならなんでも従う」と言ったくらいである。アポトマックス裁判所の戦い後、反逆罪で起訴されたが、裁判には決して掛けられる事はなかった。 1863年から1870年に死ぬまでにヴァージニア州レキシントンにあるワシント大学の学長を務めた。 1871年に校名はワシントン大学からリー大学に改名された。 |
| ジェームス・ロングストリート |
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| ジョージ・E・ビケット | 1846年、ウェスト・ポイントを完全なビリで卒業(爆)しかし、米墨戦争やその後の北西部におけるインディアンとの戦いでは戦績が良かった。 リッチモンド手前の七日間の戦いで負傷するが、フレデリックスバーグの戦いで復帰する。 彼の名声はゲティスバーグの戦いで得られた。 セメタリー・リッジに陣取る北軍に向かって攻撃をかけ、惨敗したのである。 戦後は、死去するまで保険会社に勤めた。 |
| ジェームズ・スチュワート | 1854年ウェスト・ポイントを卒業。 騎兵隊長として数年間カンザス駐在。 ジョン・ブラウンのハーバーズ・フェリー襲撃をうけ彼の逮捕に強力。 南北戦争で南軍に参加後は、第一次ブル・ラン川の戦いに参戦し、それから非常に優秀な南軍騎兵隊を組織する。 リッチモンド手前の七日間の戦い、第二次ブル・ラン川の戦い、アンティータム運河の戦いにおいて、騎兵隊による素晴らしい襲撃を行い、多数の馬や北軍兵士を捕らえ、北軍部隊の動向に関する貴重な情報を持ちかえった。 ジョセフ・E・ジョンストンは彼について、「軽騎兵隊に関して素晴らしい才能に恵まれている」と述べ、また、ロバート・リーは彼を称して「我が軍の眼である」と言った。 輝かしい戦績、若々しい容姿、絵になる言動など部下の崇拝の的南部中の偉大なヒーローとなった。 またフレデリックバーグの戦い、チャンセラーズヒルの戦いでも素晴らしい戦果を残したが、ゲティスバーグの戦いにおいては、騎兵隊攻撃にスチュワートの姿はなく、これは南軍の敗因の一因になったと言われる。 彼はウィルダネスの戦いで戦死したのであった。 |