
| 西部開拓英雄伝説第5回 |
| 第16代アメリカ合衆国大統領エィブラハム・リンカーン |
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エィブラハム・リンカーン (Abraham Lincoln) 1809年2月12日〜1865年4月15日 第16代アメリカ合衆国大統領 アメリカ国民に最も愛された大統領 |
| 1809年ケンタッキーの農場に生まれたリンカーンは、日本で云う所の豊臣秀吉の 立身出生神話と比較される事がある。 7歳の時家族と共にインディアナへ移住し家族から独立後は、雑貨商の店員〜 郵便局長〜測量技師などの職を転々とした。 1832年には、対インディアン戦争の義勇兵として入隊し続いて連邦陸軍に入隊 した。同年ホィッグ党から州議会に立候補したが落選。 1834年イリノイ州下院議員に民主・ホィッグの連立候補として出馬、初当選した。 この間に法律を学び弁護士となり、1837年、イリノイ州スプリングフィールドで法律 事務所を開いた。 1842年にメアリーと結婚し4人の男児に恵まれた。 1846年イリノイ州の連邦下院議員としてホィッグ党から選出された。 1855年上院議員に転出を試みるも失敗。 翌年、共和党に転じ1858年イリノイ州共和党大会で連邦上院議員候補の指名を 受ける。この大会でリンカーンは、半分が奴隷制で半分が自由労働制な政府は 長く続かないと思った。 その後北部民主党の大物スティーブン・A・ダグラスとの間で7回に渡って行われ |
大統領誕生〜南北戦争勃発へ
| 1860年共和党の大統領候補に指名されたリンカーンは、自由州の支持を受けて 11月6日、第16代アメリカ大統領に選ばれた。 この当選を受けて12月20日南部サウスカロライナ州の州議会が満場一致で連邦 から離脱を決定した。 ミシシッピ、フロリダなどがこれに続き、翌年ジェファーソン・デービスを大統領とす る南部連合が結成された。 最終的には、11州が南部連合として離脱した。 就任演説では、連邦統一を何より重視し、南部諸州の既存の奴隷制度に手をつ ける意図は、無いと述べた。 |
南北戦争
| 1861年4月リンカーンは、サウスカロライナ州チャールストン港に孤立していた連邦 のサムター要塞を救援する為に船隊を派遣した。 これを契機に南軍が要塞を攻撃し南北戦争の火蓋がきっておとされた。 戦争が始まると北部では、南部の奴隷制度の廃止を求める声が強まった。 リンカーンの奴隷制度に関する考えは慎重なものであったが、南部の奴隷所有者 に打撃を与えヨーロッパ諸国が南部連合を承認する動きを牽制するためにも奴隷 解放を宣言する事は有効だった。 1863年の奴隷解放宣言は「アメリカ合衆国に対して叛乱状態にある州や地域の奴隷 は解放の対象となる」という戦術的な内容だった。 この後戦争は、連邦統一の為だけではなく、奴隷解放という正義の為の戦争という 意味を帯びる様になる。 |
南北戦争後のリンカーンとアメリカ
| 1863年ゲティスバーグに新しく建設される霊園において、有名な演説がある。 「人民の、人民による、人民の為の政治」という名文句で死者達が残した目標を生き ている者達が引き継いでいく事を訴えた。 1864年大統領に再選。 1865年4月、南軍ロバート・リー将軍が、北軍ユリシーズ・グラント将軍に降伏。 戦争は、62万名に上る犠牲者をだして終結した。 400万人近い黒人奴隷達が解放された。 同年4月14日、フォード劇場でジョン・ウィルクス・ブースに狙撃され翌日死亡。 南北戦争と云う国家分断の危機に際してリンカーンは、状況判断を的確に行い戦況 の変化に柔軟に対応した。 連邦維持という目的を明確に掲げ、部下及び国民の統率力においても優れた才能 を発揮した大統領であった。 数々の名演説、奴隷解放宣言、丸木小屋生まれ、悲劇的な死といったエピソードも あいまって、伝説的な存在とさえなったリンカーンは、ジョージ・ワシントン、トーマス・ ジェファーソンといった建国の父達と共にアメリカ合衆国国民に最も愛された大統領 の一人だった。 |