南北戦争後の黒人たち。
奴隷解放の理想と現実。

 

南北戦争が1865年4月に終わってすぐ目に見える大きな変化は、黒人が奴隷という身分から開放された事だった。
南部各州に北部の軍隊が進駐して軍政を実施している間に開放された黒人たちの地位を保証する法令が次々と出された。
まづ1865年末に憲法修正第13条によって自由を確認され、68年の修正第14条には、
黒人の市民権が、70年の修正第15条では黒人の選挙権がそれぞれ承認された。
これだけみると開放された奴隷たちが、いまや奴隷でなくなり、数年の間に白人と全く同じ権利を持つようになったと思われるかもしれない。 事実1870年前後には南部の州議会の中に何人もの黒人議員が誕生している。
 しかし開放されたばかりの黒人には財産というものが全くなかった。
「風と共に去りぬ」で描かれている様に北軍のシャーマン将軍は、アトランタを占領して火を放ち、ジョージア州で略奪を続けて南部人を震え上がらせたが、この将軍は奴隷たちが自立の為の土地を欲しがっている事を知り、1人40エーカーの土地を与えるという戦時特別命令を出し、黒人たちに大きな期待を抱かせた。
 しかし、戦争が終わってみると、その約束は、わづかな間だけで消えさってしまった。 南部の黒人たちはまた元のプランターたちの綿花畑に戻り、小作人として働く以外に道はなかった。
土地と小屋、それに農作具、燃料、家畜、飼料、種子などを主人から借りて収穫の半分を提出するという制度だった。
白人の農園主もまた労働力を必要としていたから奴隷時代より少しマシ、という程度の生活が始まり黒人たちは「奴隷制だって自由だってほとんど同じ」と唄いながら綿花畑で仕事をしていたという。
初めの内こそは北部人は黒人の地位向上に熱心でわざわざ南部へ黒人の教育の為ボランティアとしてやってくる女性たちもいたが、その熱はかなり急速に冷えていった。
黒人の人権の為に努力するというよりも北部へ戻って資本貯蓄のために働く方へ関心が移っていったのである。
戦争後、北部人が支配して南部に駐在していた時代を普通、
南部再建時代と呼んでいるが、1877年までには最後の連邦軍が北部へ引上げこの再建時代は終わってしまった。
 それからの黒人たちの失望の時代が始まるのである。

 

広まっていく黒人差別

この1877年頃から南部各州では黒人への差別を合法化する動きが目立ち始めた。
 例えば、「ホテルやレストランの経営者は他の客に不快な気持ちを与える様な者は客として取り扱わなくてもよい。」というような法律は、表面上、黒人差別を表現しないで、実際には差別を行う巧妙な手段として利用された。
こういう手段が堂々と認められたのは1883年の最高裁判決である。
その内容は、黒人に市民権を与えた憲法第14条より、各州の権限の方を優先させるというもので、最高裁がこういう判決を下すようでは、黒人に対する差別が南部で認められたという他ない。
この結果、南部では生活のあらゆる面にわたって、「
ホワイト・オンリー」と、「カラード」という分離が一般化した。
「ホワイト」に対して「ブラック」とは言わず、「カラード」と表現しているのは、一滴でも黒人の血が混じった混血は全て黒人として扱われたからである。
そして、白人と黒人の結婚は禁止され学校も交通機関も教会もレストランもホテルもみな、白人用と黒人用に分離された。
公園の水飲み場や公衆トイレまでもである。
最高裁はさらに追い討ちをかけた。1896年の「分離はしても平等に」という判決である。現実の問題として白人用と黒人用に分離すれば平等でありえない。白人の学校は立派で、黒人の学校はいかにもみすぼらしい。
しかし、矛盾に満ちたこの判決は、ずっと後の1954年に最高裁によって否定されるまで続き、南部の生活様式として定着したのだった。
この様な差別が合法化される一方で黒人に対するいわれのない暴力もまた凄まじいものであった。南部の元将校たちがテネシーで結成した
K・K・Kクー・クラックス・クランである。

しかし、一方では、黒人の為の大学が戦後、南部に創設されヴァージニアのハンプトン大学、アトランタのアトランタ大学、アラバマのタスキーギー大学、テネシーのフィックス大学、それに首都ワシントンのハワード大学などは、特に有名で、多くの優秀な卒業生を輩出した。
当然そのなかには、何人もの有能な指導者が現れた。
画像をクリックすると簡単な説明が別ウィンドで表示されます。1895年にアトランタで演説をうって脚光を浴びた
ブッカー・ワシントンは、その時、39歳、タスキーギー大学の創立者だった。
彼は黒人と白人の協調が大切である事、黒人は先を急がず足元を固め、堅実な中産階級の一員になるべき事などを力説したのだった。
この演説は白人からも黒人からも支持され、24代クリーブランド大統領から賛辞を送られ、次のマッキンレー大統領はタスキーギー大学を訪問し、シオドア・ルーズベルト大統領は、彼をホワイト・ハウスに招いて食事をした。
ただし、この後、ルーズベルトは南部から猛烈な抗議を受けたのだった。
ブッカー・ワシントンのこの穏健で融和的な指導精神に対し学者として1流の業績を持つW・E・B・デュボイスはワシントンの方針を批判し、1903
年に「黒人の魂」を著して黒人の完全平等を主張した。

 


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