
![]() Harriet
Beecher Stoh
July 1th1852年発表「アンクル・トムの小屋」。 |
![]() 19世紀アメリカの女性作家の中で天才と称されたハリエット・ビーチャー・ストウ。 今も尚世界中にその名を知らしめている所以は南北戦争に先立つ事9年前の小説「アンクル・トムの小屋」による。 当時の社会に与えた逸話の一つに、戦争中にストウ夫人と逢ったリンカーン大統領が「この大戦争を引き起こした御夫人があなたですね。」と言ったほどである。 ハリエットは、後に神学校の校長となるライマン・ビッチャーの第7番目の子供として生まれ、姉キャサリンは、進歩的な女学校を創設し女子教育に大きな業績を残した。 兄弟全員牧師という家庭と言う事でハリエットの周辺は幼い頃からキリスト教への深い信仰が張り巡らされていたので彼女の文学作品の中にはキリスト教徒としての指導論理が貫かれている。 結婚は25歳の時で夫は大学教授。 その前から姉の学校で教鞭をとりながら、ローカルの文学クラブに参加し、雑誌に短編を発表し小説家活動を始めていた。 ストウ夫人が奴隷州に興味を持ったのは、彼女の住んでいるオハイオ州が奴隷州と隣接していたからであるがビッチャー家、ストウ家は、早くから奴隷制反対の立場をとっていたからである。 そして、ストウ夫人が実際に南部の奴隷制を見たのは、結婚する3年前に友人と夏休み旅行で奴隷州であったケンタッキーを訪れた時であった。 その時のハリエットは、あまり関心を示さなかったそうである。 奴隷制に対してストウ夫人がはっきりと態度を表明する事になった事件は、1850年の逃亡奴隷法の成立による。 その奴隷逃亡法により、南部の奴隷所有者からの逃亡奴隷は、自由州に住む者も捜索の手助けをしなくてはいけない事に、烈しい怒りを覚えたという。 義姉から奴隷制を廃止するモノを書くべきと言われたストウは、執筆を開始する。 最初は、奴隷制廃止論者の機関紙「ナショナル・イアラ」に1851年6月5日から執筆開始したが、連載中から大きな反響があったのでまだ連載が終わらない1852年に単行本化された。 発売以来ソールドアウト状態で一年後には、アメリカだけでも32万部以上が売れたと推測される。 ストウ夫人の存命期間中に役300万部以上が出版され19世紀中の間「聖書に次ぐ2番目のベストセラー」と言われた。 あっという間に人気作家となったストウ夫人だったが、結婚以来常に家計に悩まされていたが、一挙に豊かなモノになったようである。 しかし、その後ストウ夫人の肩には年老いた父親、引退した夫、姦通罪で訴訟された弟のヘンリー・ウォードの巨額の裁判費用、いつまでも経済的に自立出来ない6人の子供達の生活を支える為に晩年まで作家活動を強いられる事になる。 「アンクル・トムの小屋」は日本でもストウ夫人死去と同年1896年に国民新聞に掲載された。他、その後、少年文庫系や世界文学全集に掲載されていく。 この文学作品の中には何人かの重要人物が登場する。 キリスト教を体現している献身的奴隷で主人公アンクル・トム。心は優しいが、無力な奴隷所有者のオーガスティン・セント・クレア。更に最も下劣で邪悪な行為の体現者である北部出身のサイモン・リグリーは、最後、遂にアンクル・トムを・・・・・・・・ この小説が発表された時、南部の奴隷制支持者は、南部を中傷する事だけを目的とした狂信的な奴隷制反対論者であると、ストウ夫人を非難した。 これに対してストウ夫人は「あるがままに奴隷制を示す事」により奴隷制は主人と奴隷の双方を破滅されるものであるという事を知らしめるのが、この物語の目的であると反論している。 |
参考文献 村岡花子著「ストウ夫人」(講談・トムの小屋」