ヴァイキング
アメリカ史〜コロンブス以前の入植者・バイキング

ヨーロッパ人の影

1492年にコロンブスがアメリカに到着するより早い時期に、アメリカ大陸に辿り着いたヨーロッパ人の事は、長い間論争となっていた。
 最近の研究では、コロンブスよりも500年も早い時期にヴァイキングによって入植が始まっていたと云われている。
北欧のヴァイキングは900年頃迄の間住み、その後986年頃迄にグリーンランド、1013年迄にヴィンランドにその足跡を伸ばしたとされている。
 コロンブスとは違い島から島へと足場を固めながら進んだモノと考えら
れている。ヴィンランは正確に範囲を示す事が出来ないが北米大陸の一部である事は、確かとされている。
 
グリーンランドに最初に住んだのは『赤毛のエリック』(Eric the Red)『赤毛のエリック』呼ばれるノルウェー人で教会や村落の遺跡も発見されている。
彼の息子レイブ・エリクソンはノルウェー王の命令によりキリスト教を広げる為、父と一緒にグリーンランドにやって来た。
このレイブが35人の仲間と一緒に西へ向かい探検の航海にでたのが1000年頃だったと云われている。
後年、この一行が住んでた住居後が発見された。
北米大陸の北東部、ニューファンドランドの北端に近い場所だった。

レイブ・エリクソンは後を任せてグリンランドに戻りその後も何回かヴァイキングはグリーンランドからヴィンランドへの航海を行った。
1020年頃には男60人、女5人に牛を乗せた一団が出発した。
もし成功すれば定住する事まで計画されていたかもしれないが、実際には狭い範囲に閉じ困った彼等の間では仲間同士の争いは、絶えなかった。
対立は喧嘩となり、やがて殺し合いに迄発展した。
植民を拡大するどころの話しではなくなってしまった。
  
ヴァイキングの時代
当時のヴァイキング船内の様子

西暦793年6月英国北部東海岸にある大修道院リンディスファーンが初めてヴァイキングに襲われた。
沖に見なれぬ異様な帆を立てた、竜頭の長い船の大群が現れたかと思うと驚くようなはやさで接岸し、たちまち破壊と掠奪と 殺戮が始まった。 やがて彼等は燃え盛る炎と黒煙と惨劇の後を残し風の様に去って行った。  依頼200年以上に渡って西ヨーロッパはこの恐るべき異教徒の 襲撃に恐れおののく事となる。 ヴァイキングの侵攻の後はただ絶望と炎と血と涙が残るのみだった。 彼等はノルマン(北方のヒト)と呼ばれた。 当時の西欧の人々にはスウェーデン人やノルウェー人やデンマーク人を種族別に識別する知識も無く、また、北欧ではようやく 統一王国らしきものが出現する以前の事であった。  
ノルマン達は自分達の事をヴェイキングと呼んだ。  この言葉には諸説ある。『遠征して不在(ヴィーキア)となる。』の意味もあるが、有力な通説としてはVIK(入り江、峡港)に 潜みそこから沖へ通りかかる商船を襲撃するところから来たという。
INGは“ヒト”の意味でつまりは、『ヴィークのヒト』である。
とにかく西欧沿岸地の至るところで恐怖の感情を持ってヴァイキ ング襲来が語られていたのであった。
 そのノルマンのうち、スウェーデンヴァイキングは東方に進みロシアから黒海へ南下、デンマークヴァイキングは北フランス、スペ
イン、地中海に入り、ノルウェーバイキングはスコットランド、アイスランド、そしてグリーンランド、北米大陸に向かった。
 何故ヴァイキングの遠征が起こったのか?
有力な説に『人口過剰説』がある。
一夫多妻制で出生率が高く若者達を追い出さなければならなかったと云われている。
長子存続により財産を貰えなかった若者達がヴァイキングになったという考えである。
 だから、なんと人口過剰は新生児を野獣の出没する森林に捨てる習慣や真冬に戸外に幼児を放置して凍死させる習慣、老人を殺す習慣等が存在した。北欧神話の全能の神オーディン
  (日本でいうところの姥捨て山伝説
 彼等ヴァイキングは卓越した造船家であり、そして優秀な航海士でもあった。更に勇猛果敢な戦士でもあった。
彼等は羅針盤代りに霧の中で変色する『太陽石』という特別な石をもち進路を測っていた。
北欧神話の全能の神オーディンを旗印にし、船は長く竜骨のみでも30メートルもあり一隻に40人が乗り込んだ。

船の速度は当時と全く同じ様に復元したヴァイキング船を走らせたところ普通の商船よりもスピートがでたという結果が出ている。
こう云った船が50〜60艘の単位で襲来してきた。
北欧3国間の間ではスウェーデンでは、野蛮さに引け目を感じてるが、ノルウェー、デンマークでは逆に栄光の歴史を考えている
と云われている。

TVアニメ『小さなバイキング・ビッケ』
昭和49年4月3日〜昭和50年9月24日
毎週水曜日PM7:00フジテレビ全77回
原作ルーネル・ヨンソン

南方への道

ヴァイキングの英国侵攻年代表

838年 ケントへ侵攻

839年 テムズ河口へ侵攻

866年 東部アングリアへ侵攻

867年 ノーザンパーランド侵攻

994年 ロンドンへ侵攻

ヴァイキングの仏国侵攻年代表

843年 ナントへ侵攻

845年 セーヌ川を遡りパリ侵攻
(この時120隻が襲来)

10世紀以降北フランス・ノルマンディーに定住し始める

彼等の進出方向は、まず西欧はカール大帝(在位768〜814)及びルドィヒ王(在位814〜840年)、シャルル王(在位893〜923) 等に代表されるフランク王国時代(中世ドイツ)の時代だった。 事からヴァイキング達の侵攻は南方ではハンブルグへの襲来、 (851年)から始まりついでライン川周辺が襲撃の対象となった。 しかしバイキングは東フランク軍との一大遭遇戦で大敗してしまいライン河口でのヴァイキング王国建設は頓挫してしまった。 そこで彼等は英国に転じ左図の様に侵攻していった。
彼等はほぼ英国の中心部を占領植民しデーンローというデンマーク植民地を創った。
このデンマーク本土と英国にまたがるヴァイキング王国を現在では『北海王国』と呼ばれている。 今現在英国東海岸などで北欧語の古い地名を持つ都市や村があるのは、当時の名残である。 別のヴァイキング達は南下してフランスに向かった。 彼等のリーダーは『ロロ』と呼ばれ大聖堂で有名なシャルルまで も襲撃してしまった。 手を焼いたシャルル国王はここでヴァイキングをキリスト教に 集団改宗させる事を考えた。 ヴァイキング全体をキリスト教徒化する事で野蛮な侵攻を止めさ せようとする考え。後に北欧への布教活動の開始となりやがて 全北欧がキリスト教によって逆に征服されてしまう。
911年ノルマンディーの所領でヴァイキング海賊達の地方国家建 設が始まり、ロロは最初のノルマンディー公となった。 その後彼等の子孫ウィリアム征服王が1066年に南イングランドに 上陸、ヘイスティングズの会戦を経てノルマン王朝の英国王とな
った。 ヴァイキング最後の遠征ということになる。 こうして彼等は北欧からノルマンディーに姉妹国を創り更に英国 で国創りに成功し地中海に出た一部はシシリー島(イタリア)でも 国創りに成功する。  そこで地中海に向かったヴァイキングを見てみるとまず彼等は 62隻でスペイン沖に姿を現し(59年)内陸のコルドバ迄攻め込ん だ後イタリーに向かった。彼等はピサを掠奪してローマを目指し た。  途中彼等は一つの都市を遠望してローマと勘違いした。 市の守りは固かった。 ヴァイキングのリーダー格のハースチン は、使者を出し自分が臨終の重病の為キリスト教の洗礼を受け クリスチャンとして死にたいと願っている事を伝えさせた。
棺を中にした葬列は城内に入り修道院の聖堂に着いた。 しかし“死者”は棺を破って飛び出し仲間達はいっせいに剣をふ るって暴れまわり市は陥落した。 しかしここはローマではなくて ルナ(現在は存在しない)という都市である事を彼等は知った。
その後1016年になってノルマンディーのヴァイキング達が別途、 南イタリーにやって来た。 しかし彼等は既にキリスト教徒化され
ていて聖地巡礼の為であった。  つまりノルマン巡礼団として モンテガルガーノの聖ミカエル寺院の参拝にやって来たのだった
しかしここでヴァイキングの血が騒ぎナポリ公の傭兵となって手 柄をたて頭角を表し勢力を創って行きやがて1130年にはシシリー
ととして誕生した。 又、中には第一次十字軍(1096年〜1099年)にさんかしてアンチ オキア公国(シリア)を創ったヴァイキングまでもがでてきた。 北方からやって来たスウェーデンヴァイキングと地中海から来た
デンマークヴァイキングが合流したか、確かな事は判らないとさ れている。

ノルマンのロベール・ギスカール
900年頃ヴァイキング達は主要な攻撃路である河川の流域に獲物が見つけられなくなる程、北フランスを荒らし尽くした。だが皮肉な事に西ヨーロッパに永続的な衝撃を齎した唯一の襲撃は911年にセーヌ川下流の峡谷を掠奪しに来たフラルフという名の指導者に率いられたデーン人の軍勢によるものだったのである。フラルフはシャルトル(フランス)の包囲を試み失敗したが彼の軍勢はセーヌ峡谷を脅かしフランス王シャルルはサン・クレール・スール・エプテにおいてフラルフと交渉を行う事になった。この合意に基づきブレル川、エプテ、アブル、ディベ(以上ノルマンディー)に囲まれた全域がヴァイキングのものとなった。これらは実質的にすでにヴァイキングに支配されている地域だった。924年にフランク人はバイユー、エクスム、セーの各地方を、933年にはコタンタンとアバランシンをデーン人に与えた。912年に洗礼を受けたフラルフはロロとして知られる様になり二世代を経るうちに彼と彼に従うヴァイキング達はフランク人の言語、宗教、法律、慣習、政治機構そして戦争のやり方等を取り入れ名前以外はフランク人になっていった。こうして彼等は北方人を意味するノールマンの土地→ノルマンディの民であるノルマン人と呼ばれる様になった。ノルマン人の海への愛着とダイナミックなエネルギーは彼等に商業的な成功をもたらし11世紀半ばにはノルマンディーはキリスト教世界で最も強力な自治体の一つとなっていた。彼等の冒険を愛する気持ちは11世紀の大規模な植民につながり彼等はスペインでムーア人と衝突し
ノルマン公の組織
一般的な慣習に従ってデーン人の下級の首長はノルマンディー公のもとで貴族社会を形成した。しかし早くも1047年には貴族達は公によって服従させられていた。これによって公はノルマンディーを当時のどの地域よりも完全に支配したと見なす事が出来ここに封建社会というものが形成され社会の末端に至るまで支配する事になった。封建家臣達は特定の土地の保有権、つまり『封』と交換に軍務に勤め、この奉公は5人から10人の騎士を単位として課せられた。こうした軍務の多くは慣習法に定められ厳密に施行された。公の家臣同士の個人的な争いは厳しく制限された。城の建築は公の承認無くしては行えず、また公が望めば城を明渡さなくてはいけなかった。 貨幣の鋳造は基本的に偉大な君主の特権とされていたが、これも公が独占していた。地方行政は封建的、地方的な権利とは相反する、公或いは国家全体の権利を代表し地方の徴税を担当するヴィスコメス(ヴィコント)(vicecomes)と呼ばれる州長官に委任され教会もまた公に支配された。このようなやり方こそが精力的なノルマン人をして『物事を先へ進ませる人々』として知らしめる事となる。イングランド征服の時点でウィリアムは貴族、司教そして修道院長が皆『騎士』としての責務を負う。高度に組織化された封建国家を手に入れた。しかしこのような巨大な事業はやはりウィリアムスの手に余り彼は非常に限定された軍事力しか思い通りに出来なかった。例えば公に直属するノルマン人貴族に仕える騎士の軍務を負う騎士のわずか6分の1しか召集出来なかった。更に公直属の貴族達は英仏海峡を越えた軍務は彼等の封建的義務の一つではないと考えていた。多くのノルマン人の豪族及び騎士達がウィリアムに従ってイングランドへ渡ったが彼等は封建社会の義務として召集されたのではなく、戦利品と土地を求める傭兵や冒険者達であったのである。『ヘースティングの戦い』における『ノルマン人』の軍はおよそ7000人程度と推定されてこれはノルマンディーからやってきた兵力の半数以下だったと思われる。員数を揃える為にウィリアムは全ヨーロッパから傭兵を集めた。ブランドル、ブルターニュ、ピカルディー、ブーローニュなどから騎兵や歩兵、弓兵、投石兵等が集められ更にシチリアと南イタリアからは、いくばくかのノルマン人冒険者もやって来た。

 

東方への道

一方東方へ向かったスウェーデンヴァイキング達は首領リュー リックに率いられてモスクワの周辺でホルムゴルドという国を創っった。   彼等は『ルス』と呼ばれた。 ここから後の“ロシア”の国名が生まれた 当時のロシアを彼等は『ガンダリケ』と名付けた。
そしてボルガを下り一体は別れてカスピ海に向かいカフカスに 入りバクダットを目指した。 その途中、キエフにも王国を創った。 彼等は船を担いだりコロ を使ったりして川を求めて下るというやり方で黒海とカスピ海に
出たのであった。今でもアラビア銀貨がバルト海沿岸で出土する のはこの頃のヴァイキングの活動を物語るモノである。 彼等はアラブ人のみならず、中国人、インド人とも接触したといわれている。 
小さな銅の仏像もスウェーデンで発掘されている。
 彼等はドニエプ川を水路として黒海に入り東ローマ帝国の首都 コンスタンチノーブルに姿を現しここを“ミクラゴルド”と呼んだ。

スウェーデンの謎のルーン石碑
ヴァイキングにはスウェーデン人も加わっている。10世紀末から11世紀にかけてスウェーデンに数多く建てられた大きな立石のルーン石碑には〜羅が遠征を行った事が不思議な図象と共に彫られている。
 バルト海側のスウェーデン人は、東方内陸の川沿いに遠征してロシアでのノヴィゴロド王国等にも関わったとされている。
ヴァイキングは掠奪と交易を交互に行う。
スウェーデンではイスラム銀貨も大量に出土しており、毛皮や掠奪で得た奴隷を主商品として東イスラム社会に輸出していた。

北方への道〜アメリカ大陸発見


ヴァイキングの侵攻経路図ヴァイキングの侵攻経路図また、ノルウェーヴァイキング達は西方へ向かった。
まずスコットランド、アイルランドに襲来した。そして北上してフェロー諸島、オークニー諸島、シェトランド諸島、アイスランドに上陸した。
 特にアイスランドは植民の対象となった。
しかしノルウェーヴァイキング達はここから更にグリーンランド植民を始める。(982年頃)かねてから噂となっていた未踏のユートピアとされていた。
グリーンランド=緑の大地は誇大宣伝だった。実際のグリーンランドは過酷な極寒の地であった。誇大宣伝にのってしまった移住者は985年、25隻の船に家畜を乗せ出発した。
だが目的の地に着いたのは14隻のみだった。 やがてグリーンランド南端の東部と西部にそれぞれ100戸、200戸程度の集落が出来始めた。最盛期には3000人位の移民地が出来た。

そしてここからいよいよアメリカ大陸発見のドラマが始まる。
北欧古代文学の『グリーンランド人のサガ』の中でも語られていて、ピャルニという男が985年にアイスランドからグリーンランドへ位中に出発した赤毛のエリックに同行した父親の後を追い途中船を流され遠く南西に漂流し見知らぬ土地を3度目にした。
彼はそれがグリーンランドと様子が違うので上陸しないで潮流に乗って北東に押し流されグリンランドに辿り着いて父親と再会したのであった。
そして992年、赤毛のエリックの息子ライフ・エリクソンがピャルニの見た土地への探検を思いつく。ライフ・エリクソンは35人の仲間と出航した。 彼等は初めて北米大陸を目にして海岸線を南下した。そして最初に上陸したところを『
ヘルランド』(森林の地ラブラドールと云われている。)と呼び更に南方まで航行して上陸した地をヴィンランド(葡萄の地 ニューファウンドランド)と命名した。  野生の葡萄を発見した為であり、ボストンとニューヨー
クの間だという。ここで楓の木を見つけ魚の沢山いる川を見つけたりしているが、しかい当時の葡萄の北限自生地はもっと南ではなかったのだろうかと疑問を投げる説もある。
とにかく『グリーンランド人のサガ』では葡萄、木材を積んでグリーンランドに戻った事になっている。 
いずれにしてもコロンブスの大陸発見の500年前の事である

アメリカ大陸はその後何回かヴァイキング植民が試された。
しかし当然全て失敗した。
後の西部開拓におけるインディアンとの抗争を考えればとても小人数の散発的なヴァイキング移民が成功するとは考えられない。 なお、グリーンランドのヴァイキング達はその後北欧本国から連絡も途絶えてしまい全滅してしまった。
しかしそれでもその後も時折難破船の乗組員の話で『白いエスキモー』や『金髪のエスキモー』と会ったと北欧に伝えられている

また南方に向かったヴァイキング達は英国でもノルマンディーでも、どこでも王となった首領に服従し兵士となり、初期ヴァイキング達の自由、独立的な精神活動は失われていった。
東方に向かったヴァイキングも第ロシアの中に消えていった。
ヴァイキング達の時代は終わりつつあった。
理由は遠征に出発したヴァイキング達はそのままもはや北欧に帰って来なくなった。英国でもノルマン王朝は消滅しシシリーでもスタウハウフェン家となり、ノルマンディーもフランス人の手に戻った。 残ったヴァイキング達ももはや自分達をノルマンとは考えていなかった。彼等はフランス人となり英国人となり、イタリア人となってとけこんでいった。  12世紀頃には西欧各地でほぼ、
ノルマンは消滅した。 


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